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益子焼(栃木)

益子焼について

益子焼は1853(嘉永6)年に笠間焼で修行した大塚啓三郎により開かれ、明治以降は首都圏に近いという立地を生かし、壺、甕、すり鉢などの日用雑器を大量に焼き続けました。民藝運動の指導者である濱田庄司氏が最終的に腰を据えて陶芸に取り組む場所に益子を選んだことは、益子焼に大きな影響を与えました。京都で河井寛次郎氏とともに学び、イギリスでバーナード・リーチ氏と共同で作陶し、沖縄の壺屋にも一時的に滞在したのち、濱田氏は生まれ育った関東に近いという理由で益子へ移住しました。濱田氏は益子に来てコバルトやマンガン、黒の絵の具などで山水や山野草などが描かれた「山水土瓶」との出会い、これを”健康の美”と称しました。現在では美術館やギャラリー、土産物屋からレストラン、カフェまでが立ち並ぶ一大観光地である益子。濱田氏が益子焼の伝統を生かしつつ、新作民藝に積極的に取り組んだことにより、大規模な窯元から個人レベルの陶芸家までが作陶をする大窯業地となりましたが、元来かたちも装飾も簡素だった益子焼の伝統を引き継ぐ窯や職人はほとんど残っていないそうです。

特徴・魅力

砂気の多い土と深みのある釉薬から生まれる素朴さが益子焼の特徴であり、魅力です。 益子を代表する釉薬である柿釉の器は、とても風情があります。柿釉の材料は地元の山の岩を砕いたもの。かける量や焼く温度で仕上がりが大きく異なります。深みのある色を出すには高い技術が必要だそうです。元々防水機能があり、瓦や甕に使われていましたが、柿釉に美しさを見出したのは濱田庄司氏でした。濱田氏は柿釉に別の材料を加え、多彩な色を生み出しました。そのひとつがクヌギの木を燃やしたときに出来る灰で、これを柿釉に混ぜることで生まれたのが渋みのある黒釉でした。現在柿釉は益子焼の様々な色の元となっています。濱田氏は自ら「柿釉」と名付けた釉薬を生涯使い続けました。地元で採れる材料の持つ特徴と伝統を生かしつつ、全国の窯場の技法や装飾を取り入れてきた濱田氏の感覚が融合し、益子の器がもつ素朴で簡素な美しさが築かれました。

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